『三酔人経綸問答』は、中江兆民の「主著」とされ、論じられることも多い。しかし、そのテクストが成り立つ主体的な文脈に沿って解読されることは、必ずしも十分に果たされてきているとはいえないように思われる。
兆民は、この作品に先だって、彼の「経綸」の基礎を形造るルソーの『社会契約論』や『学問芸術論』の翻訳だけでなく、フランス革命史の叙述や、ルソー批判の紹介などをも試みていたし、彼が「理学」と呼ぶ
兆民の「主著」は、そうしたサブテクスト群の広がりと奥行きの中に置き直されるとき、どのような姿を開示するのか。できるだけ、新たな諸側面に即して素描してみたい。