BACK

TONJO QUESTION017

この時代に、哲学を学ぶ意味とは何でしょうか?

人文学科

#問いに対する対談コラム

概要

入学試験や資格試験ではいかに多くの問題に正解するかが求められますが、たとえ答えが出なくても知りたくなる問いや、なぜだか考えたくなる問いはありませんか。世の中には明確な正解がある問いよりも、答えがない問いや答えが一つではない問いがたくさんあります。むしろ、そうした問いの方が多いと言えるでしょう。では、哲学専攻の山田有希子先生と3人の学生は普段どんな問いに向き合っているのでしょうか。「問う」とはどういうことなのかを語っていただきました。

出演者

あの木の葉は、本当に“緑”なのか?

山田

多くの人が普段、あまり問うことはないけれど、哲学ではよく問われる問い、いわゆ画像対応済み る“あるある”の問いがあります。「あの木の葉は、本当に“緑”なのだろうか?」はその一つです。この問いを授業で聞いたとき、率直にどう受け止めましたか?

大橋

授業で黒崎先生(※)がこの問いを取り上げられました。そのとき、最初に浮かんだ言葉は「なんだ、それ?」でした。さらに先生は、「もし火星人がここにいたらどうだろうか」と問われました。火星人は人間よりも繊細な感覚を持っているかもしれない、そして、緑色よりももっと細かな粒子レベルで察知している可能性がある、と思考実験的なお話を展開され、それを聞いて、すごく斬新に感じました。

酒巻

動物と人間は見え方が違い、たとえば犬には緑が灰色に見えてしまいます。私はこのことを踏まえて、この「問い」に対して、「木の葉は、それ自体として緑である」とは言えないのではないかと思いました。

※黒崎政男教授。東京女子大学名誉教授

工藤

私もよく覚えてます。黒崎先生の話にはさらに続きがあって、隣を歩いている人が同じ木を見たときに自分とは見え方が違うかもしれないとも話されました。それを聞いて私はすごくやさしいなと思ったんです。

山田

「やさしい」とは?

工藤

普通、人は自分のものさしで考えたり、物事を見たりしてしまいます。だから、木を見るときも、私には緑に見えているから、相手にも当然、緑に見えていると思ってしまいます。でも、他者の視点から考えたときに違うかもしれないという見方があれば、人との関わり方が少し変わりそうだと思いました。

科学的に説明できれば答えが出たといえるのか?

山田

なるほど。「あの木の葉は、本当に緑なのか」という問いには、生物種によって見え方が変わるかもしれないし、人間同士でも不一致があるかもしれないと、思考が進んでいったわけですね。ただ、緑色というのは、たしかに認識主観によって見え方が異なるかもしれないけど、葉っぱにはクロロフィルという物質があって、それが特定の波長の光を反射し、それが私たち人間の視覚器官を通じて脳で処理されることで「緑」として認識される、という客観的な説明ができます。とくにいまの時代、そういう科学的な説明がもっとも信頼できる正しいものだと誰もが納得するように思います。しかし哲学では、この問いと答えの可能性をいろいろ考えていきますね。こうした科学的説明についてはどうとらえますか。

酒巻

私は、小さい頃から生まれつき目の不自由な人にはどのように色を説明するのだろうと思っていました。そんな風に科学的に緑の説明をしても、見えなければ、その色を想像することができません。そもそも世界が「色づいている」かもわからないと思いますから、私たちは色が当たり前に身近にあるものだと思っていても、視覚障害者はそうでないかもしれません。そう思うと、すごく身近なものが遠く感じられるときがあります。

山田

自分の「わかっている」という意味を揺さぶられた感じですね。「あの木の葉は本当に緑なのか」という問いは、たぶん自分一人で考えていても問いの意味も広がらないですし、答えも出ないと思います。他の人とこうして対話したり、他の人の見方とすり合わせたりすることで、たくさんの答えがあるばかりでなく、そもそも「問い」の方の意味が深まっていくのだと思います。

問うことの「意味」とは? 問うことに「意味」は必要か?

工藤

よく哲学は意味がないと思われがちで、哲学専攻にいると周囲から「なぜそんなことを考えるの?」と言われることがあります。でも、最初に問いを持つときは、特別何か意味をつけようとして考え始めていないと思うんです。いろいろ考えていくうちに、結果的に他の人の価値観や考え方に触れて自分の価値観が変わっていくし、その積み重ねが今の自分になっています。つまり、後から意図せずして意味が生まれているのだと思います。

酒巻

たとえば、人生はそもそも意味があるのかと考えたとき、誤解を恐れずに言えば、私は何も意味がないのではないかと思っています。勉強も恋愛も就活も全部、人は意味をつけたくなるし、世間からも意味を求められますが、そこに少し理不尽さを感じます。

大橋

就職活動では、いわゆるガクチカといって、純粋に好きでやってきたことに対して「こんなすごいことをしました」「こんな成果を残しました」というように、無理やり意味づけてアピールしなければならない部分があります。でも、私はそれに対して猛烈に違和感を覚えます。なぜなら、私の中で意味がある行為とは、人間社会の中で生きる「自分」を知ることだからです。例えば「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いは、まず問い自体がおかしいとされますが、哲学ではこうした否定的な問いも「自分」を知る機会として、それを問うことがタブー視されることなく、受け入れられます。それは、たとえば、自分が今社会の中でどのような立場にあり、どういった意見を出すべきとされているのか、という自分でも意識しなかった暗黙の了解を知ることにも繋がるのです。こういった問題提起をできる点が、哲学を学ぶ意義であり、面白さだと考えます。

山田

なるほど。たしかに、今挙げてくれたような問いは、問い自体が危なく見えて、非常識的で、たとえば小・中学校では扱ってはいけないとされ、うっかり言葉にすることさえ許されないかもしれません。しかし、これは決して人を殺したいから問うというようなものではなく、たとえば動物や植物の命は当たり前のように殺されているのに、また、戦争時には人同士も殺し合いをしてきたのに、また、日本では死刑制度もあるのに、常識的に「人を殺してはいけない」とされていることとそれらはどう関係するのか等、改めて、自分の中の常識について、しっかりその根拠にまで遡って自分で考えようとする問いですね。

工藤

私自身、よく「なぜ生きているんだろう」と思っています。これは決して精神的に病んでいるわけではなく、同じように「なぜ?」という単純な好奇心からきています。人は皆、つらいことがあっても一生懸命に生きようと頑張ります。それはすごいことだとたしかに思うけれど、なぜなのかを知りたくて、小学校のとき、調べ学習で取り上げようとしたほどです。でも、そのときは担任の先生にはその問いは調べられないから別の課題にしてと言われ、その問いを考えるのをあきらめました。でも、ずっと誰も疑わないのはなぜかと思っていました。それが哲学専攻に進んだことで、これまでずっと純粋に知りたいと思っていたことを徹底的に考えられるようになりました。

山田

何かのために問う問いではなく、純粋に知的好奇心からただその問いのために問う、そういう自然に発せられる問いが、結果として自分の生活や人生に関わって、後から意味が生まれてくる問いにもなってくるということですね。そうした問いには、他にも、「女性とは何か」「魂と意識の違いは何か」「時間とは何か」など、ほんとうにいろいろありますよね。

大橋

「フェミニスト現象学」の授業では、性別の「らしさ」が取り上げられました。たとえば、男性は個人的なことを喋らず、寡黙であることが美徳とされがちで、一方、女性は少し声を挙げ、意見を口にすると、「感情的だ」「うるさい」と言われるところがあります。これを「感情的」の一言で片づけたり、多数派の意見に流されたりするのではなく、きちんと議論できる場があるのは女子大で哲学を学ぶ意義の一つだと思っています。

正解を出すことではなく、考えることに意味がある?

山田

もともと哲学の営みはソクラテスの時代から人と人との対話です。では、「対話」と少し似ている「ディベート」というものがありますが、両者の違いはどんなところにあると思いますか。

大橋

対話は人の経験をより大事にできると思います。対話の相手が、過去の出来事に何を感じて、また、将来に何を望み期待しているのか、という観点のもとで今現在の相手の言動に向き合う姿勢が求められます。ですので、相手の意見をいきなり否定したり反論したりするのが対話の目的ではないと思います。なぜ相手がそう考えたのかを、その背景や根拠にまで遡って堀り下げます。そこから、場合によって違う考え方にも柔軟になり、新しい考えを受け入れる姿勢が対話を通して身に着くと思います。

酒巻

法律でもディベートでも正解を決めなければなりません。それに対して、対話は自分が納得できなくても、相手が納得できなくても成立します。というのも、例えば「神はいるのか」「魂と意識の違いは何か」という問いは、たしかに正解がないからこそ、むしろ対話することで新しい世界が広がったり、納得できなければさらに考えたりでき、やはりなんというか自分の糧になる気がします。

工藤

哲学的な問いでは、自分のことを隠さずに話すことができ、自分についても他者についても知ることができます。それによって、今まで当たり前だとされてきたことが間違いだったと知り、自分の見方や考え方を変えるきっかけになることもあります。対話は、ディベートのように一方の答えを選ぶのではなく、両方を合わせてもいいし、違いから新しい考えを作ることもでき、そこがいいと思います。

山田

ここまで出てきたいくつかの問いは一見、たしかに非常識的で非現実的な問い、現実からかけ離れた問いに見えます。でも、みなさんの問う姿勢を聞いていると、実は、それらの問いを掘り下げることで、私たちの日常生活に接続し、いわばそれと地続きになっている問いになることが分かります。もっと言えば、そうした対話を重ねることで、自分が変わるだけでなく、社会を変えていったり、次の新しい常識を作っていったりする問いにもなるとも言えるのではないでしょうか。
 哲学の問いは役立たないと言われることもありますが、それでもなぜか問うてしまうものです。しかも、その問いに正解はありません。もちろん問いに正解があれば楽で、正解に従って動く方が社会も安定し秩序が保たれやすいように見えます。でも、いわゆる正解と言われるものも暫定的な正解でしかないとも言えます。ときには、正解や常識というものについて、立ち止まって考え、振り返ることが求められ、そこで必要になるのが哲学の問いと対話の姿勢だと思います。
 東京女子大学ではリベラルアーツ教育が行われており、リベラルアーツとはギリシャ時代以来、もともと自由になるための教育です。では何から自由になるのかといえば、自分の中にある常識や先入観、思い込みからです。リベラルアーツ教育の根っこには哲学の営みがあり、これからも、自分の感じ方・疑問・違和感に丁寧に目を向け続け、他者とともにそれを問い、自分の生き方や価値観を考え続けていってほしいと思います。