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東京女子大学

池明観 元教授ご逝去にあたり

本学の元教授・池明観先生が2022年1月1日にご逝去されました。

池明観先生は、本学で「朝鮮文化研究ゼミ」や、誠信女子大学校(韓国)との交換留学制度の創設に尽力され、本学の韓国朝鮮研究の礎を築かれた先生です。
私は、そうした伝統を受け継ぐ5代目の教員として、現在、国際社会学科国際関係専攻で韓国朝鮮研究のゼミを担当しています。
池明観先生は、本学でのお仕事の傍ら、「T・K生」という仮名で、雑誌『世界』に韓国の状況を世界に知らせる連載をされていたことで大変有名な先生です。この連載の一部は、『韓国からの通信-1972.11~1974.6』(岩波新書、1974年)としても出版されました。
なぜ、池明観先生は「T・K生」という仮名で文章を書かれたのでしょうか。
現在の韓国社会を知る若いみなさんには、理解するのが難しいかもしれませんが、池明観先生が「韓国からの通信」を書きはじめた1972年の韓国は、軍事独裁政権下にありました。
当時、朴正熙大統領は「維新体制」を敷いて半永久的な権力を握っていました。他方、国民は午前0時以降の外出が原則禁止され、言論の自由はありませんでした。池明観先生は、『韓国からの通信』に次のように記しています。
「去る十月十七日の夕方から突然始まった戒厳令下の韓国の状況については、誰も語る自由をもっていない」
(1972年11月「悲観と拒絶」)
「民間は無力そのものであり、政府は全く万能である。夜の12時から始まる『通行禁止時間』は実に象徴的なものであるかもしれない。その時間から民間の人は誰一人出歩けない。政府がなす多くの不正はこの時に遂行された。」
(1973年8月「金大中氏事件を見守る」)
独裁政権がなぜ成り立っていたかを考えれば、冷戦構造に目を向けなければなりません。今では想像すら難しいかもしれませんが、当時は北朝鮮のほうが、経済的にも韓国より優位な体制にありました。そのため、北朝鮮と対峙する韓国は、アメリカなどの支援もあり、「反共」の名のもと国家統一を図るため、軍事独裁が黙認されていました。国民の多くも、北朝鮮との戦争(1950~53年)を経験し、北の脅威を感じながら独裁政権に沈黙を続けていました。
しかし、そのような中でも、軍事独裁に反対し、民主化を求める韓国国民の運動がありました。政府は、そうした運動を共産主義(北朝鮮支持)と見做し、厳しい検閲を敷き、逮捕し、容赦なく拷問し、運動を抑えようとしました。池明観先生は『韓国からの通信』に次のように記しています。
「ソウルの街では現代版の『残酷物語』の噂があとを絶たない。もちろんそれは韓国CIAに関する話である。ソウル大学校法科大学崔(チェ)鐘(ジョン)吉(ギル)教授がCIAの中で死体として発見された。『トイレの建物から投身自殺』というのがCIAの発表である。誰もこれを信じない。拷問による死だと信じている。」
(1973年11月「ガス室の噂」)
「去る四月三日の学生蜂起以後、実に数知れぬ若い人々が獄中で拷問を受けている。」
(1974年5月「残れる者」)
「朴政権は拷問と恐怖政治においてそのもっとも近代化した面目を示しているのであろう。この状況について全世界に訴えたい。」
(1974年5月「『創作』の名手」)
民主化を求める人々が、命を懸けて託した資料をもとに、池明観先生は「韓国からの通信」を書きました。もし見つかれば、資料を渡した者も池明観先生も、厳罰を受ける状況です。比較的監視が緩かったキリスト教会の関係者を通じて、資料の受け渡しがなされたのはそのためです。池明観先生は、クリスチャンとして小さき者の声を大切にし、韓国の民主化のために力を尽くされました。そのきっかけを、先生は次のように記されています。
「呉在植(オジェショク)(大学の後輩—筆者)は韓国の民主化運動にキリスト教が重要な役割を担うよう東京で支援活動をしていこうというのであった。反政府運動をすれば北に同調する動きであると決めつけようとする状況では、とりわけ教会が運動の先頭に立たねばならない。私はその提案を避けることができなかった。この日から私の東京における生活は全面的に変わってきたといえるかもしれない。韓国の民主化のために戦うことが私の東京滞在の最優先する目標になった。」
(池明観『境界線を超える旅』岩波書店、2005年)
本学の韓国朝鮮研究は、こうした池明観先生の志を受け継いでいます。
池明観先生の偉大な功績に敬意を表し、謹んで哀悼の意を表します。
現代教養学部
国際社会学科 国際関係専攻 准教授
森万佑子