CONTENTS 目次
01_略歴
丸山眞男は1914(大正3)年、現在の大阪府大阪市阿倍野区で、『大阪朝日新聞』記者・丸山幹治とセイの第二子として生まれました。
父が『読売新聞』の論説委員・経済部長となったため、一家は東京に転居しました。丸山は小学校卒業後、東京府立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)を経て、第一高等学校文科乙類に進学しました。第一高等学校在学中、唯物論研究会が主催した長谷川如是閑の講演会に出席したところ、講演会自体は合法的に開催されたものであったにもかかわらず、本富士警察署に検挙・拘留されました。以後、丸山は特別高等警察などの監視下に置かれることになります。
その後、東京帝国大学法学部政治学科に入学し、無教会派の敬虔なキリスト教徒であり、西洋政治哲学の研究者でもあった南原繁から強い影響を受けました。南原は丸山を法学部助手に採用するとともに、日本の思想史を研究するよう勧めました。これが、丸山が日本政治思想史の研究者として歩み始めるきっかけでした。
1940年に東京帝国大学法学部助教授に就任した丸山は、後に『日本政治思想史研究』(1952年)にまとめられる諸論文を発表し、近世日本における「近代的思惟」の成長を明らかにしようとしました。しかし、1944年と1945年に陸軍に召集され、1945年8月6日には、広島市宇品の陸軍船舶司令部で原子爆弾の投下に遭いました。司令部棟の陰にいたため紙一重で生き残った丸山は、一兵士であった自分が助かったことに後ろめたさを感じ、被爆者健康手帳を申請しませんでした。
丸山は1946(昭和21)年、雑誌『世界』に「超国家主義の論理と心理」を発表しました。この論文では、政治的権力と精神的権威とを一元的に占有した大日本帝国の精神構造・国家構造を厳しく批判し、広い反響を呼びました。それは、人びとの内面になお残されていた帝国の精神構造を問い直し、精神における「戦後」の始まりを告げる論文であったとも評されています。
その後、丸山は「論壇の寵児」として数々の論文やエッセイを発表しただけでなく、自ら一市民としてさまざまな行動に参加しました。平和問題談話会では、講和問題をめぐる声明「三たび平和について」の第1章と第2章を執筆し、東西冷戦下においても二つの世界の共存は可能であるとの立場から、日本の中立を主張しました。政府が憲法調査会を通じて進めようとした憲法改正の動きに対しては、憲法問題研究会の活動を通じて、日本国憲法の理念を広めることに努めました。
丸山の存在をさらに広く人びとに印象づけたのが、1960年の安保条約改定反対運動への参加でした。1960年5月19日から20日にかけて、新安保条約の承認案が衆議院で強行採決されたことに危機感を抱いた丸山は、講演やデモへの参加を通じて、人びとに反対行動を強く呼びかけました。丸山が特に問題としたのは、安保条約の内容だけではありませんでした。強行採決を是認することは、権力の万能を肯定することにつながると考えたのです。これを拒む行動によって民主主義の理念を現実のものとするべきであり、民主主義の危機は、同時に民主主義を確立する好機でもあると訴えました。
60年安保後、丸山はアメリカのハーバード大学やイギリスのオックスフォード大学などで在外研究を行い、初めて欧米に長期滞在しました。丸山は1958年度の講義以来、日本人の思考様式の「原型」をめぐる構想を示していましたが、帰国後の東洋政治思想史の講義では、あらためてその冒頭に「原型」論を置くようになりました。また、古代から幕末に至る日本思想史の通史を講じるようになり、こうした思索は、後に「歴史意識の『古層』」(1972年)へと結実しました。
1968年に始まった東大紛争では、丸山は東京大学法学部附属明治新聞雑誌文庫運営委員会主任として、約1か月にわたって文庫内に泊まり込みました。その間、不眠に対処するためウイスキーで睡眠薬を服用したことが、後の体調悪化に影響したともいわれています。翌1969年2月に授業が再開されると、丸山は学生たちから糾弾され、5回目の講義が妨害された後、慢性の肝臓疾患と診断されて長期療養に入りました。1971年3月には東京大学を退官しましたが、その後も1974年3月まで、非常勤講師として、東京女子大学に近い自宅で大学院生の授業を続けました。
療養生活に入った後も、丸山は「闇斎学と闇斎学派」(1980年)のような研究論文のほか、回顧的な文章や追悼文を発表するとともに、対談や座談会の記録も数多く残しました。また、1936年から1957年までの文章を収めた『戦中と戦後の間』(1976年)をはじめ、『後衛の位置から』(1982年)、『「文明論之概略」を読む』上・中・下(1986年)、『忠誠と反逆』(1992年)などを刊行しました。
1994年には自身の著作集の刊行を承諾し、『丸山眞男集』全16巻の刊行が1995年10月に始まりました。その刊行が続いていた1996年8月15日、丸山は肝臓がんのため死去しました。82歳でした。『丸山眞男集』は、没後の1997年5月に全16巻が完結しました。
父が『読売新聞』の論説委員・経済部長となったため、一家は東京に転居しました。丸山は小学校卒業後、東京府立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)を経て、第一高等学校文科乙類に進学しました。第一高等学校在学中、唯物論研究会が主催した長谷川如是閑の講演会に出席したところ、講演会自体は合法的に開催されたものであったにもかかわらず、本富士警察署に検挙・拘留されました。以後、丸山は特別高等警察などの監視下に置かれることになります。
その後、東京帝国大学法学部政治学科に入学し、無教会派の敬虔なキリスト教徒であり、西洋政治哲学の研究者でもあった南原繁から強い影響を受けました。南原は丸山を法学部助手に採用するとともに、日本の思想史を研究するよう勧めました。これが、丸山が日本政治思想史の研究者として歩み始めるきっかけでした。
1940年に東京帝国大学法学部助教授に就任した丸山は、後に『日本政治思想史研究』(1952年)にまとめられる諸論文を発表し、近世日本における「近代的思惟」の成長を明らかにしようとしました。しかし、1944年と1945年に陸軍に召集され、1945年8月6日には、広島市宇品の陸軍船舶司令部で原子爆弾の投下に遭いました。司令部棟の陰にいたため紙一重で生き残った丸山は、一兵士であった自分が助かったことに後ろめたさを感じ、被爆者健康手帳を申請しませんでした。
丸山は1946(昭和21)年、雑誌『世界』に「超国家主義の論理と心理」を発表しました。この論文では、政治的権力と精神的権威とを一元的に占有した大日本帝国の精神構造・国家構造を厳しく批判し、広い反響を呼びました。それは、人びとの内面になお残されていた帝国の精神構造を問い直し、精神における「戦後」の始まりを告げる論文であったとも評されています。
その後、丸山は「論壇の寵児」として数々の論文やエッセイを発表しただけでなく、自ら一市民としてさまざまな行動に参加しました。平和問題談話会では、講和問題をめぐる声明「三たび平和について」の第1章と第2章を執筆し、東西冷戦下においても二つの世界の共存は可能であるとの立場から、日本の中立を主張しました。政府が憲法調査会を通じて進めようとした憲法改正の動きに対しては、憲法問題研究会の活動を通じて、日本国憲法の理念を広めることに努めました。
丸山の存在をさらに広く人びとに印象づけたのが、1960年の安保条約改定反対運動への参加でした。1960年5月19日から20日にかけて、新安保条約の承認案が衆議院で強行採決されたことに危機感を抱いた丸山は、講演やデモへの参加を通じて、人びとに反対行動を強く呼びかけました。丸山が特に問題としたのは、安保条約の内容だけではありませんでした。強行採決を是認することは、権力の万能を肯定することにつながると考えたのです。これを拒む行動によって民主主義の理念を現実のものとするべきであり、民主主義の危機は、同時に民主主義を確立する好機でもあると訴えました。
60年安保後、丸山はアメリカのハーバード大学やイギリスのオックスフォード大学などで在外研究を行い、初めて欧米に長期滞在しました。丸山は1958年度の講義以来、日本人の思考様式の「原型」をめぐる構想を示していましたが、帰国後の東洋政治思想史の講義では、あらためてその冒頭に「原型」論を置くようになりました。また、古代から幕末に至る日本思想史の通史を講じるようになり、こうした思索は、後に「歴史意識の『古層』」(1972年)へと結実しました。
1968年に始まった東大紛争では、丸山は東京大学法学部附属明治新聞雑誌文庫運営委員会主任として、約1か月にわたって文庫内に泊まり込みました。その間、不眠に対処するためウイスキーで睡眠薬を服用したことが、後の体調悪化に影響したともいわれています。翌1969年2月に授業が再開されると、丸山は学生たちから糾弾され、5回目の講義が妨害された後、慢性の肝臓疾患と診断されて長期療養に入りました。1971年3月には東京大学を退官しましたが、その後も1974年3月まで、非常勤講師として、東京女子大学に近い自宅で大学院生の授業を続けました。
療養生活に入った後も、丸山は「闇斎学と闇斎学派」(1980年)のような研究論文のほか、回顧的な文章や追悼文を発表するとともに、対談や座談会の記録も数多く残しました。また、1936年から1957年までの文章を収めた『戦中と戦後の間』(1976年)をはじめ、『後衛の位置から』(1982年)、『「文明論之概略」を読む』上・中・下(1986年)、『忠誠と反逆』(1992年)などを刊行しました。
1994年には自身の著作集の刊行を承諾し、『丸山眞男集』全16巻の刊行が1995年10月に始まりました。その刊行が続いていた1996年8月15日、丸山は肝臓がんのため死去しました。82歳でした。『丸山眞男集』は、没後の1997年5月に全16巻が完結しました。
02_ことば
丸山の著作・講演・座談から、政治、民主主義、平和、ナショナリズム、精神的自立などをめぐる「ことば」を、発表年順に紹介します。
INDEX ことば一覧
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代以降
1946年
「超国家主義」とは何か
「「勝つた方がええ」というイデオロギーが「正義は勝つ」というイデオロギーと微妙に交錯しているところに日本の国家主義論理の特質が露呈している。それ自体「真善美の極致」たる日本帝国は、本質的に悪を為し能わざるが故に、いかなる暴虐なる振舞も、いかなる背信的行動も許容されるのである!」
(「超国家主義の論理と心理」1946年)
1946年
戦後日本への期待
「日本軍国主義に終止符が打たれた八・一五の日はまた同時に、超国家主義の全体系の基盤たる国体がその絶対性を喪失し今や始めて自由なる主体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあったのである。」
(「超国家主義の論理と心理」1946年)
1947年
ナショナリズムと民主主義の結合
「長きにわたるウルトラ・ナショナリズムの支配を脱した現在こそ、正しい意味でのナショナリズム、正しい国民主義運動が民主主義革命と結合しなければならない。それは羯南らの課題を継承しつつ、その中道にして止まった不徹底を排除することにほかならぬ。」
(「陸羯南——人と思想」1947年)
1947年
人間精神の主体的能動性
「かくして福沢の場合、価値判断の相対性の強調は、人間精神の主体的能動性の尊重とコロラリーをなしている。いいかえれば価値をアプリオリに固定したものと考えずに、是を具体的状況に応じて絶えず流動化し、相対化するということは強靭な主体的精神にしてはじめてよくしうる所である。……是に反して主体性に乏しい精神は特殊的状況に根ざしたパースペクティブに捉われ、「場」に制約せられた価値基準を抽象的に絶対化してしまい、当初の状況が変化し、或はその基準の実践的前提が意味を失った後にも、是を金科玉条として墨守する。ここに福沢が「惑溺」と呼ぶ現象が生れる。」
(「福沢諭吉の哲学」1947年)
1949年
昭和の戦争指導者
「彼等はみな、何物か見えざる力に駆り立てられ、失敗の恐ろしさにわななきながら目をつぶって突き進んだのである。彼等は戦争を欲したかといえば然りであり、彼等は戦争を避けようとしたかといえばこれまた然りということになる。戦争を欲したにも拘らず戦争を避けようとし、戦争を避けようとしたにも拘らず戦争の道を敢て選んだのが事の実相であった。」
(「軍国支配者の精神形態」1949年)
1949年
フィクションを信ずる精神
「フィクションの本質はそれが自ら先天的価値を内在した絶対的存在ではなく、どこまでもある便宜のためになんらかの機能を果たさせるために設けた相対的存在だということにある。だからもし制度なり機構なりがその仕えるべき目的に照らして絶えず再吟味させられることがなかったならば、それはいわば凝固し、習俗化してしまうわけだ。フィクションの意味を信ずる精神というのは、一旦つくられたフィクションを絶対化する精神とはまさに逆で、むしろ本来フィクションの自己目的化を絶えず防止し、之を相対化することだ。「うそ」は「うそ」たるところに意味があるので、これを「事実」ととりちがえたら、もはや「うそ」としての機能は果たせない。」
(「肉体文学から肉体政治まで」1949年)
1950年代
1950年
「絶対的真理を容認せず」
「僕は少くも政治的判断の世界においては高度のプラグマティストでありたい。だからいかなる政治的イデオロギーにせよ、政治的=社会的諸勢力にせよ、内在的先天的に絶対真理を容認せず、その具体的な政治的状況における具体的な役割によって是非の判断を下すのだ。僕はいかなるイデオロギーにせよそのドグマ化の傾向に対しては、ほとんど体質的にプロテストする。」
(「ある自由主義者への手紙」1950年)
1950年
核時代の戦争
「いまや戦争はまぎれもなく、地上における最大の悪となったのである。どのような他の悪も、戦争の悪ほど大きくはない。従って逆にいうならば、世界中の人々にとって平和を維持し、平和を高度にするということが、それなしには他のいかなる価値も実現されないような、第一義的な目標になったといわなければならない。どのような地上の理想も、世界平和を犠牲にしてまで追求するには値しない。なぜなら、それを追求するために戦争を訴えたが最後、戦争の自己法則的な発展は、当該の理想自体を毀損してしまうからである。」
(「三たび平和について 第1章」1950年)
1951年
日本ナショナリズムの特徴
「日本のナショナリズムは早期から、国民的解放の原理と訣別し、逆にそれを国家的統一の名においてチェックした。そのことがまたこの国の「民主主義」運動ないし労働運動において「民族意識」とか「愛国心」とかいう問題の真剣な検討を長く懈怠させ、むしろ挑戦的に世界主義的傾向へと追いやった。そうして、それはまたナショナリズムの諸シンボルを支配層ないし反動分子の独占たらしめるという悪循環を生んだのである。」
(「日本のナショナリズム」1951年)
1952年
民主主義を機能させるには
「民主主義を現実的に機能させるためには、なによりも何年に一度かの投票が民衆の政治的発言のほとんど唯一の場であるというような現状を根本的に改めて、もっと、民衆の日常生活のなかで、政治的社会的な問題が討議されるような場が与えられねばなりません。それにはまた、政党といった純政治団体だけが下からの意思や利益の伝達体となるのではなく、およそ民間の自主的な組織(voluntary organization)が活潑に活動することによって、そうした民意のルートが多様に形成されることがなにより大事なことです。」
(「政治の世界」1952年)
1958年
「悪さ加減の選択」
「政治的選択というものは必ずしもいちばんよいもの、いわゆるベストの選択ではありません。それはせいぜいベターなものの選択であり、あるいは福沢諭吉のいっている言葉ですが、「悪さ加減の選択」なのです。これは何か頭に水をぶっかけるようないい方ですけれども、リアルにいえば政治的選択とはそういうものです。悪さ加減というのは、悪さの程度がすこしでも少ないものを選択するということです。この中には二つの問題が含まれているのです。すなわち、第一に、政治はベストの選択である、という考え方は、ともすると政治というものはお上でやってくれるものである、という権威主義から出てくる政府への過度の期待、よい政策を実現してくれることに対する過度の期待と結びつきやすい。つまり、政治というものはもともと「自治」ではなくて、政府がよい政策をやってくれるものだという伝統的な態度と容易に結びつくのです。したがって、こういう政治というものをベストの選択として考える考え方は、容易に政治に対する手ひどい幻滅、あるいは失望に転化します。つまり、政治的な権威に対する盲目的な信仰と政治にたいする冷笑とは実はうらはらの形で同居している。政治にベストを期待するということは、強力な指導者による問題解決の期待につながります。政治というものは、われわれがわれわれの手で一歩一歩実現していくものだというプロセスを中心にして思考していったものでなければ、容易に過度の期待が裏切られて、絶望と幻滅が次にやってくる。万事お上がやってくれるという考え方と、なあにだれがやったって政治は同じものだ、どうせインチキなんだ、という考え方は、実は同じことのうらはらなんです。」
(「政治的判断」1958年)
1958年
民主主義を育てるもの
「大衆の自己訓練能力、つまり経験から学んで、自己自身のやり方を修正していく——そういう能力が大衆にあることを認めるか認めないか、これが究極において民主化の価値を認めるか認めないかの分れ目です。つまり現実の大衆を美化するのでなくて、大衆の権利行使、その中でのゆきすぎ、錯誤、混乱、を十分認める。しかしまさにそういう錯誤を通じて大衆が学び成長するプロセスを信じる。そういう過誤自身が大衆を政治的に教育していく意味をもつ。これがつまり、他の政治形態にはないデモクラシーがもつ大きな特色であります。」
(「政治的判断」1958年)
1959年
「自由」であるということ
「自由人という言葉がしばしば用いられています。しかし自分は自由であると信じている人間はかえって、不断に自分の思考や行動を点検したり吟味したりすることを怠りがちになるために、実は自分自身のなかに巣食う偏見からもっとも自由でないことがまれではないのです。逆に、自分が「捉われている」ことを痛切に意識し、自分の「偏向」性をいつも見つめている者は、何とかして、ヨリ自由に物事を認識し判断したいという努力をすることによって、相対的に自由になり得るチャンスに恵まれていることになります。」
(「「である」ことと「する」こと」1959年)
1959年
民主主義的思考とはプロセスの重視
「民主主義というものは、人民が本来、制度の自己目的化——物神化——を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、はじめて生きたものとなり得るのです。それは民主主義という名の制度自体についてなによりあてはまる。つまり自由と同じように民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義でありうるような、そうした性格を本質的にもっています。民主主義的思考とは、定義や結論よりもプロセスを重視することだといわれることの、もっとも内奥の意味がそこにあるわけです。」
(「「である」ことと「する」こと」1959年)
1959年
「いやいやながらの政治活動」
「どうして権力を直接目的とする活動だけが政治活動なのか。どうして学問や芸術といったそれ自体非政治的な動機から発するいわばいやいやながらの政治活動があってはいけないのでしょうか。」
(「「である」ことと「する」こと」1959年)
1959年
大衆民主主義の中でリベラルであること
「現代日本の知的世界に切実に不足し、もっとも要求されるのは、ラディカル(根底的)な精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつくことではないか」
(「「である」ことと「する」こと」1959年)
1959年
非政治的領域から発する政治的発言
「明六社の思想は十年代以後の自由民権論に比べて、政治的急進性において劣っていたものを、啓蒙主義本来の課題の方法的自覚において補っていたといっても必ずしも言い過ぎではない。
明六社のような非政治的な目的を持つ自主的結社が、まさにその立地から、政治を含めた時代の重要な課題に対して、不断に批判して行く伝統が根付くところに、はじめて政治主義から文化主義かといった二者択一の思考習慣が打破され、非政治的領域から発する政治的発言という近代市民の日常モラルが育って行くことが期待される」
明六社のような非政治的な目的を持つ自主的結社が、まさにその立地から、政治を含めた時代の重要な課題に対して、不断に批判して行く伝統が根付くところに、はじめて政治主義から文化主義かといった二者択一の思考習慣が打破され、非政治的領域から発する政治的発言という近代市民の日常モラルが育って行くことが期待される」
(「開国」1959年)
1960年
友との付き合い方
「だから、友を求める場合にも、人間は、迷いぶかく、過失をおかしがちであるという考えを基礎において、他人に過大な期待や夢をかけずに、お互の個性を尊重しあった人間関係を持続していってほしいと思うのである。」
(「友を求める人たちに」1960年)
1963年
日本のナショナリズム
「いわゆる日本のナショナリズムは、ケチなんです、ケチ・ナショナリズムですね、だからコンプレックス・ナショナリズムになる。……そのコンプレックスが、いろんな形で現われて、やたらにすごんだり、米英撃滅といってみたり、アメリカ帝国主義の追及になってみたり、今度は逆に、居直りナショナリズムになったり、表現形態はいろいろ異っても、みんな似ているんです。……もともと、日本の土着的なものと言っても、らっきょうの皮をはぐみたいに縄文式文化までさかのぼってみれば、いずれはどこからか来たものでしょう。日本民族自身にしてもどこからか渡来したわけでしょう。なにが土着ですか。外来対土着という二分法を根本的に打破しなければいけない。アメリカだってヨーロッパだっていいじゃないですか、どんどん貪欲に毒を吸収して、その上で出てくる土性骨——われわれは日本に生まれたんだという宿命、そこから出てくるナショナリズムが本当のものなのです。」
(「点の軌跡」1963年)
1964年
「永久革命」としての民主主義
「いうまでもなく民主主義は議会制民主主義につきるものではない。議会制民主主義は一定の歴史的状況における民主主義の制度的表現である。しかしおよそ民主主義を完全に体現したような制度というものは嘗ても将来もないのであって、ひとはたかだかヨリ多い、あるいはヨリ少ない民主主義を語りうるにすぎない。その意味で「永久革命」とはまさに民主主義にこそふさわしい名辞である。なぜなら、民主主義はそもそも「人民の支配」という逆説を本質的に内包した思想だからである。「多数が支配し少数が支配されるのは不自然である」(ルソー)からこそ、民主主義は現実には民主化のプロセスとしてのみ存在し、いかなる制度にも完全に吸収されず、逆にこれを制御する運動としてギリシャの古から発展して来たのである。」
(「増補版 現代政治の思想と行動 追記・附記」1964年)
1964年
丸山が目指した「永久革命」
「僕がいったような、普遍的なものへのコミットだとか、人間は人間として生まれたことに価値があり、どんなに賤しくても同じ人は二人とない、そうした個性の究極的価値という考え方に立って、政治・社会のもろもろの運動・制度を、それを目安にして批判してゆくことが「永久革命」なのです。それが僕の考えです。」
(「普遍意識欠く日本の思想」1964年)
1966年
「精神的な自立の最後の核」
「自分は世界に一人しかいないんだ、これは非常にふしぎなことだと思いませんか。自分と同じ人間は世界に二人といない——簡単にいえばこの自覚、というより驚きの自覚が精神的な自立の最後の核じゃないかと思うんです」
(座談「丸山眞男氏を囲んで」1966年)
1966年
他者理解と精神的自立
「異質的な他者を内在的に理解するということは、他者を自分の精神の内部に位置づけることですから、それだけ精神の内部での対話が可能になるわけです。それによって、従来の自分を自分自身からひきはがすことができる。だから、そこはちょっと逆説的なんですね。自分の中に他者を住まわせることが精神的自立へ通ずるので、そうでないとズルズルの環境ぐるみの自我主義になる。」
(座談「丸山眞男氏を囲んで」1966年)
1968年
「経験」と「人格」
「人の経験は決して他人によって代位できないものだ、だからお前のいうことくらいきかなくてもわかっているとは誰もいう権利はない。つまり、すべての人には学問のあるなしとか、地位とか階級とか、そういうものを全部捨象して、その人でなければ語れない経験がある。それをつぶすことは、彼の「人格」を否定することになる。……ラスキが言論の自由を基礎づけているのは、どんな山奥のじいさんばあさんにも、その人でなければ語れない経験があるということ、しかもコミュニケーションによる経験の相互理解が可能なものであること、この二つを結びつけている。」
(座談「経験・個人・社会」1968年)
1977年
「悔恨共同体」
「「配給された自由」」を自発的なものに転化するためには、日本国家と同様に、自分たちも、知識人としての新らしいスタートをきらねばならない、という彼等の決意の底には、将来への希望のよろこびと過去への悔恨とが——つまり解放感と自責感とが——わかち難くブレンドして流れていたのです。私は妙な言葉ですが仮りにこれを「悔恨共同体の形成」と名付けるのです。つまり戦争直後の知識人に共通して流れていた感情は、それぞれの立場における、またそれぞれの領域における「自己批判」です。」
(「近代日本の知識人」1977年)
1986年
古典を学ぶ意味
「古典を読み、古典から学ぶことの意味は——すくなくも意味の一つは、自分自身を現代から隔離することにあります。「隔離」というのはそれ自体が積極的な努力であって、「逃避」ではありません。むしろ逆です。私たちの住んでいる現代の雰囲気から意識的に自分を隔離することによって、まさにその現代の全体像を「距離を置いて」観察する目を養うことができます。」
(『「文明論之概略」を読む』1986年)
1986年
権力の偏重
「ここで福沢〔諭吉〕の考え方に二つ、大事なことがあると思います。
一つは……人間関係の「構造」としての権力の偏重ということ。つまり人間交際のなかで権力の偏重がまず下部構造として、土台としてあって、その上層建築として、たとえば政治権力の偏重もあるのだ、という観察です。
それから第二には、権力の偏重というのは、たんに事実の問題ではなく、価値の問題であるということです。……たとえば封建時代には大藩と小藩があった。寺院にも本寺と末寺がある。……「権力の偏重」が日本文明の構造的特質なのは、この事実上の大小に価値が入ってくるからだ。つまり、小より大の方が偉いのだという価値づけを同時に伴なっている。それが問題なのです。」
一つは……人間関係の「構造」としての権力の偏重ということ。つまり人間交際のなかで権力の偏重がまず下部構造として、土台としてあって、その上層建築として、たとえば政治権力の偏重もあるのだ、という観察です。
それから第二には、権力の偏重というのは、たんに事実の問題ではなく、価値の問題であるということです。……たとえば封建時代には大藩と小藩があった。寺院にも本寺と末寺がある。……「権力の偏重」が日本文明の構造的特質なのは、この事実上の大小に価値が入ってくるからだ。つまり、小より大の方が偉いのだという価値づけを同時に伴なっている。それが問題なのです。」