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東京女子大学

Vol.2 野田夏子さん

「モヤモヤして気持ちが悪かった。もう少しやってみたいな、と」

1993年 理学研究科修士課程修了
日本電気株式会社 情報・ナレッジ研究所/クラウドサービスLCM TG 主任研究員 (2013年より芝浦工業大学 デザイン工学部准教授)

野田さんが学部を卒業した頃はバブルの末期、就職は引く手あまたで、特に理系女子は完全な売り手市場。しかし、4年間勉強しても掴みきれなかった「数学」という学問のことを、そのままにしてはおけなかった。モヤモヤしたままでは気持ち悪いと感じた野田さんは、当時の就職課の担当者に「2年後も今の経済状況が続くとは限らない。就職も厳しくなっているかもしれない。」と言われたが、覚悟を決めて大学院へ進学を決めた。

「とにかく、もうちょっとこれがわかりたい、と思っていた。数学の修士論文で、オリジナルな論文を書いてみたかった。」

ほぼマンツーマンで授業を受けて2年、「巨大な岩」のような難問を解く大数学者は手をつけない「小さな石」を見つけ、なんとかオリジナルな論文を書き上げた。しかし同時に、数学の世界の果てしなさを実感し、博士課程へ進むことはやめて就職を決意。学部の時に一般教養の日本語学の授業で聞いた言語処理の話が面白かったこと、リクルーターの女性技術者が熱心だったことなど、いくつかの親近感もありNEC(日本電気)を選択、研究職を志望する。言語処理もコンピュータも専門外のためメインの研究所には入れなかったが、なんとか応用研究のラボに潜り込む。

「これが良い悪いって、どうやって決めるんですか?」

念願の研究所に入れたが、そこは最先端のコンピュータ技術を研究する未知の世界。同期は情報科学専攻出身など専門的な知識のある人たちばかりだった。各研究グループが新人たちにプレゼンをしてくれて、希望配属先を決める参考にするという際にも、野田さんにとってはどのチームの研究も「チンプンカンプン」。しかし唯一「面白い」と思ったチームがあり、彼女は初めて質問をする。「このクラス図の良し悪しは、どうやって決めるんですか?」と率直に聞かれた上司は彼女に興味を持ち、「うちのチームに来てもいいよ」と自称落ちこぼれの新人を引き受けてくれた。それが、最新ソフトウェア工学と野田さんの出会いである。

「うちに来たら、まずは論文を一本書け!と言う上司の下で研究をスタートできたのは ラッキーだった。もちろん、初めての論文は真っ赤に添削されたけれど・・・」

企業の研究所は、ビジネスとして成り立つことを前提に研究を進めなければならない。論文なんて書かなくていいから、どんどん製品を作れ!というチームもあったが、野田さんの上司は、研究を論文として発表することを積極的に勧めていた。そのおかげで野田さんは、企業人としては多くの論文を書き、企業に勤める傍ら、博士課程の社会人向けコースに進み、博士号を取得している。

「企業の中の研究者は、最終的にはお金になるものを!ということをすごく言われる。ずっと研究したいことを続けていくには、例えば大学とか、違う場所に行くことも見据えて、まずは教える経験を積まなくてはならないと考え、母校の先生に相談に行った。」

野田さんが教えられるのは、もちろんソフトウェア工学。非常勤講師はすでにいたが、多忙のため別の講師を探してほしいと申し出があった時だった。すぐに非常勤講師として後輩たちを教え始め、その後他大学からも声がかかった。絶妙なタイミングで道が開けていくのは、野田さんのキャリアの特徴だ。

「コレ、チンプンカンプンだけど、私の知っているアレ?」

パイプオルガンの写真は、現在の東京女子大学礼拝堂に設置されているもの。

高校時代、野田さんは長年磨いてきたピアノの腕を活かして音大に進学しようかと悩んでいたが、数学教師であった担任のすすめもあり理系を選んだ。そして実は第一志望ではなかった数理学科に入学した。野田さんはいつも偶然のように新しい分野へ足を踏み入れて、自分なりの感性で理解し、そして自分のものにしていく。

「自分の専門を持っておくことが一番。なんでもいいので、自分が知っていることに照らし合わせて考えられると、少し生きやすい。」

大学時代はときおり鍵盤が恋しくなり、大学の礼拝堂でボランティアのオルガニストをしたこともあった。最近ではすっかりピアノはご無沙汰という野田さんは、ソフトウェア工学についてこう語った。

「駕籠(カゴ)に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋(ワラジ)を作る人。その草鞋を作るのがソフトウェア工学」とは、ある先生の言葉。

パソコン等を使って楽しむユーザーを籠に乗っているお客さんとすれば、その籠を担ぐのがプログラマーやソフトウェアの開発者たち。そして、彼らがそれをどう作るのか、どうやったら品質よく作れるのか、つまり、「担ぎやすい草鞋」を作るのがソフトウェア工学の研究者であるという。情報社会の底辺を支えるこの重要な研究に一生の仕事を見出した野田さんは、ピアニスト志望から研究職へと、自然体で着実に転身を遂げた貴重なロールモデルだ。