第9回 / 懐疑、明確化、充実した人生-哲学専攻 大谷ゼミ
世界観の点検としての哲学
私の専門は哲学です。哲学とはどのような学問でしょうか。私の考えでは、哲学は「世界観の点検」です。「世界観」と言うとちょっと大げさに響きますが、要するに「当たり前」のことで、哲学とはわれわれの「当たり前」を点検する学問なのです。
このように言うと、「当たり前を疑う」という話だと思う人もいるかもしれません。実際、哲学者の中には徹底した懐疑-疑い-を追求した人もいます。例えば、近代を代表する哲学者デカルト(1596~1650年)は、方法的懐疑とよばれる議論により、ありとあらゆる事柄を疑いました。
今私の目の前にはコーヒーカップが見えています。このコーヒーカップが存在するということは当たり前で疑いの余地などないと思われるでしょう。しかし、デカルトはそうではない、と言います。デカルトに言わせると、私は夢を見ているかもしれず、どんなにありありと見えているように思われたとしても、コーヒーカップの存在には疑いの余地があります。
このように言うと、「当たり前を疑う」という話だと思う人もいるかもしれません。実際、哲学者の中には徹底した懐疑-疑い-を追求した人もいます。例えば、近代を代表する哲学者デカルト(1596~1650年)は、方法的懐疑とよばれる議論により、ありとあらゆる事柄を疑いました。
今私の目の前にはコーヒーカップが見えています。このコーヒーカップが存在するということは当たり前で疑いの余地などないと思われるでしょう。しかし、デカルトはそうではない、と言います。デカルトに言わせると、私は夢を見ているかもしれず、どんなにありありと見えているように思われたとしても、コーヒーカップの存在には疑いの余地があります。
ウィトゲンシュタインと哲学的明確化
しかし、「疑う」は当たり前を点検する唯一の方法ではありません。私が研究対象としているウィトゲンシュタイン(1889~1951年)という哲学者は、「疑う」よりも「明確化」が有効な方法だと考えます。例えば、人間には心があること、男女平等な社会が望ましいこと。これらは「当たり前」でしょう。しかし、「心って何?」「男女が本当の意味で平等な社会ってどんな社会?」と問われたら、明確に答えるのは簡単ではありません。そこで必要となるのは、疑うことではなく、われわれが何を当たり前としているのかの明確化です。「心」や「平等」といった言葉はなじみの言葉であり、これらの言葉を用いて何かを言われるとわれわれはつい分かった気になってしまいます。しかし、そこでちょっと立ち止まって当たり前の中身を明確にしていくこと。これも哲学の一つの方法なのです。
哲学と充実した人生
哲学には当たり前を問い直すさまざまなやり方があふれています。私のゼミを含め、哲学専攻の授業では学生たちはさまざまな哲学の議論を学び、当たり前を深いレベルで問い直す力を身に付けていきます。
現代の人々、とりわけ女性はさまざまな「当たり前」の圧力の中で生きています。哲学を学ぶことは、そのような当たり前を問い直し、真に自分がコミットするに値する考えにたどり着く力を養うことです。それは当たり前に振り回されず、自分自身の人生を生きる力を身に付けることで、充実した人生を歩むための学びなのです。
現代の人々、とりわけ女性はさまざまな「当たり前」の圧力の中で生きています。哲学を学ぶことは、そのような当たり前を問い直し、真に自分がコミットするに値する考えにたどり着く力を養うことです。それは当たり前に振り回されず、自分自身の人生を生きる力を身に付けることで、充実した人生を歩むための学びなのです。
入門コンテンツ
『ウィトゲンシュタイン 明確化の哲学』大谷 弘 著
(青土社、2020年)
ウィトゲンシュタインの哲学を「明確化」という観点から読み解く本です。ウィトゲンシュタインの学説の要約ではなく、その「哲学するさま」を描き出すことを目指しました。最新の研究成果を踏まえつつも、専門家ではない一般読者を想定しています。
第11回 / 共生社会へ向けて—ダイバーシティとインクルージョンの両立— コミュニケーション専攻 福島ゼミ
グローバル化や情報化に伴い、私たちは世界中のさまざまな人々と関わりを持てるようになりました。そして、これまで必ずしも十分に関わりを持ててこなかった多様な心身の特徴を持つ人々(LGBTQ+や障がいを持つ方々など)の声にもアクセスできるようになってきました。
しかし「類は友を呼ぶ」という諺ことわざもあるように、実際には私たちが関わりを持つ他者は自分と似た同質な相手であることが多く(「同類結合」と呼ばれます)、異質な人々の間では逆に分断が進んでいることが示唆されています。世界各地で多くの紛争や移民排除がみられるとともに、身近な友人との間の些さ細さいな対立、さらにはオンライン空間上でもネット叩だたきや炎上も日常的にみられるように、価値観が似た人たちが集まると、そこから外れた異質な人を排除する力が働きます。
このような中で、多様な特徴を持つ人たちが排除されずに適度な(※人によって異なる)関係を持ち、一人ひとりが自分らしく生きられる社会のあり方を探求することが、ゼミのテーマの大きな柱となっています。この他にも学生自身が関心を持つテーマを持ち寄り合って、毎年ゼミのテーマが形作られています。
しかし「類は友を呼ぶ」という諺ことわざもあるように、実際には私たちが関わりを持つ他者は自分と似た同質な相手であることが多く(「同類結合」と呼ばれます)、異質な人々の間では逆に分断が進んでいることが示唆されています。世界各地で多くの紛争や移民排除がみられるとともに、身近な友人との間の些さ細さいな対立、さらにはオンライン空間上でもネット叩だたきや炎上も日常的にみられるように、価値観が似た人たちが集まると、そこから外れた異質な人を排除する力が働きます。
このような中で、多様な特徴を持つ人たちが排除されずに適度な(※人によって異なる)関係を持ち、一人ひとりが自分らしく生きられる社会のあり方を探求することが、ゼミのテーマの大きな柱となっています。この他にも学生自身が関心を持つテーマを持ち寄り合って、毎年ゼミのテーマが形作られています。
共生社会×リベラルアーツ教育
グローバル化や情報化に伴う変化が激しい現代でより一層求められるのが、既存の当たり前から解放された視野の広さ・思考の深さです。そのような力を養うためには、海外留学をはじめとした特別な学びが必要であると思われるかもしれません。しかし、より大事なのは皆さんが日常で関わる身近な一人ひとりが多様な性格や価値観を持ち、自分にとっての「当たり前」は誰一人として同じではないことを肌身で感じることです。
そして、そのような当たり前から解放される学びとして、東京女子大学が中心に据えているのがリベラルアーツ教育です。個別の学問にとらわれずに学問領域間を自由に横断することで、既存の当たり前、さらには自分自身の当たり前から解放された視野の広さ・思考の深さを養うことができます。
皆さんも、東女で自分らしくありながらも自分自身を変え続けていく「挑戦する知性」(創立100周年を迎えるに当たり東女が定めた基本コンセプト)を備えた地球市民になりませんか?
そして、そのような当たり前から解放される学びとして、東京女子大学が中心に据えているのがリベラルアーツ教育です。個別の学問にとらわれずに学問領域間を自由に横断することで、既存の当たり前、さらには自分自身の当たり前から解放された視野の広さ・思考の深さを養うことができます。
皆さんも、東女で自分らしくありながらも自分自身を変え続けていく「挑戦する知性」(創立100周年を迎えるに当たり東女が定めた基本コンセプト)を備えた地球市民になりませんか?
入門コンテンツ
『信頼の構造:こころと社会の進化ゲーム』(東京大学出版会、1998年)山岸 俊男 著
信頼は、相手との切っても切れない「絆きずな」となる一方で、私たちの自由を制約する「絆ほだし」ともなり得ます。皆さんは、周りの人を信頼していますか? それとも、周りのみんなが信頼される行動をとらざるを得ない環境に“ 安心” していますか? これらの相違、実はとても大切です。
-
-
福島 慎太郎
-
心理コミュニケーション学科 コミュニケーション専攻 准教授
1984年生まれ、埼玉県出身。京都大学大学院修了、博士(地球環境学)。京都大学こころの未来研究センター研究員、青山学院大学総合文化政策学部助教等を経て、現職。
-