- 銀行やシンクタンクでの勤務から、観光庁立ち上げへ。
興味がなかった観光学にのめり込んだ理由 - さまざまな学問領域から成り立っている「観光学」とは
- 学生が自分で見つけた課題は宝物。最もよい形で学んでもらうために、教員同士のコミュニケーションも密に取っています
- 私は、大学とは自分で自分を育てる力をつける場、「自分育ての場」だと思っています
- 観光学について興味を持った方におすすめしたい本
銀行やシンクタンクでの勤務から、観光庁立ち上げへ。
興味がなかった観光学にのめり込んだ理由
─大学時代は政治学をご専攻されていたそうですね。矢ケ崎先生が「観光」に興味を持ったきっかけを教えてください。
矢ケ崎:小さい頃から旅は好きでした。学生時代は「遠くに行かなきゃ」という思いに突き動かされて、必死にバイトをして欧米のいろんなところを周っていましたね。けれど、これはあくまでも個人としての旅。学問の対象として、あるいは仕事としての観光については、実はほとんど興味がなかったんです。最初の就職先は銀行で、女性総合職ができて第一期としての採用でした。でも、今思えば、大学で政治思想を専攻したことと、旅とはつながっていたようにも思います。いにしえから、旅は思想形成に大事だとされてきましたから。
矢ケ崎紀子先生
─当時、観光はビジネスとして今ほど一般的ではなかったのでしょうか。
矢ケ崎:当時は、観光ビジネスの代表格が旅行業でした。旅行商品を構成する宿泊や交通、レジャー施設等を自前で持たずに調達して行程を組み立て、旅行料金は前払いをするといったやり方には、リスクを取らないビジネスだという見方が強かったと思います。日本経済を牽引してきた製造業では、先にさまざまな投資をして商品やサービスをつくってリスクを引き受け、その分どれだけの利益をあげられるかというビジネスモデルが主流です。そういったやり方が尊重される日本において、「すでにある部品を集めて前払いで売るなんて、リスクをとってないよね」と言われてしまうくらい地位が低かった。なので、私も全然興味がなかったんです(笑)。
─それがどういうきっかけで観光庁の設立に携わることになったのでしょうか?
矢ケ崎:そんなふうに観光を狭く甘く見ていたから、バチがあたったんだと思います(笑)。銀行に入行して3年ほど経ってから行内結婚をしたため、銀行の子会社である日本総合研究所(日本総研)に移籍することになりました。当時は職場内結婚をした場合、どちらかが辞めなくてはならない慣習があったんです。日本総研の立ち上げを経験し、そこでコンサルタントとして働いていたら、ある日上司から「カンコウチョウが設立されるので、官民交流人事で課長級として行ってみないか」と言われて。私はてっきり「官公庁」に新しく立ち上がる消費者庁の話かと勘違いしていました。でも上司に「カンコウって、ツーリズムのほうだぞ。楽しいぞ」と言われ、「そうかなぁ?」と思いながらも、業務命令を断るわけにもいかず観光庁へ出向することになりました。それが2008年のことです。
─では、観光庁に行かれてから本格的に観光について学び始めたんですね。
矢ケ崎:そうですね。最初はやっぱり斜に構えていましたよ、こんなの国が頼りにしていい産業なの? って。でも、だんだんのめり込んでいきました。観光庁の上司から「観光統計をきちんと整備してください」と命じられたことも大きかったですね。どの程度のレベルのものをつくり上げればいいかと訊くと「組織がもしなくなったとしても、統計は残ってほしい。世界トップ水準のものをつくってほしい」という返事でした。その視野と志の高さに感銘を受け、観光政策の立案にも評価にも長く耐えられる国の統計をつくろうと、私は本気になりました。
実は、当時は「観光分野の数字ほど当てにならないデータはない」って、シンクタンクやコンサルティング会社では言われていたんですよ。人の非日常的な移動、交流に関する非常に大事な事象を分析しなければいけないにも関わらず、国内で定義が定まっていなかったのです。たとえば観光客数の定義すらバラバラだったんです。一泊したお客さんに対し、翌日のお昼までいるから「1.5人だ」とカウントしている地域もあったぐらい(笑)。
実は、当時は「観光分野の数字ほど当てにならないデータはない」って、シンクタンクやコンサルティング会社では言われていたんですよ。人の非日常的な移動、交流に関する非常に大事な事象を分析しなければいけないにも関わらず、国内で定義が定まっていなかったのです。たとえば観光客数の定義すらバラバラだったんです。一泊したお客さんに対し、翌日のお昼までいるから「1.5人だ」とカウントしている地域もあったぐらい(笑)。
─それは驚きですね……!
矢ケ崎:それからは猛勉強しました。統計というのは数十年経っても使えるものでなくてはならないので、将来観光がどうなっているかを構想しなければいけないわけです。わが国の観光の実態把握はもちろんのこと、観光先進国の学者さんと交流したり、国連世界観光機関(UNWTO)のミーティングに参加したり、国を超えて聞けるだけ聞きました。それから、将来的にも押さえておかなくてはいけない項目を調査票に起こして、調査手法を検討し、国の一般統計として統計法をクリアするべく精度を整える作業を、仲間とともに進めました。総務省統計局とも何度も何度も激しい議論を戦わせました。そういう作業を通して、観光の深さ・強さ・弱さ、そして、いろんなクセ(笑)を勉強したんです。大学でリベラル・アーツ教育を受けていて本当によかったと思いました。どの学問でどんなことがわかるかが、おおよそ頭に入っていますからね。おかげ様で、私と部下の統計チームが手がけた観光統計の一つである「訪日外国人消費動向調査」はとてもよく活用される統計となりました。
さまざまな学問領域から成り立っている「観光学」とは
─観光庁の立ち上げがきっかけで「観光学」という学問の世界に進まれることになったのでしょうか?
矢ケ崎:そうですね。2年半の観光庁での経験を通して、日本の疲弊した地域に対して、観光というのはこれほど大きな力を持つのかという驚きがありました。観光統計や担当していた観光白書の分析を使って、地域が元気になるツールとして観光を上手に使うことで、コミュニティを維持し続けられるのではないかと思い至ったのです。その後、観光庁からもとのシンクタンクに戻ったのですが、自分が観光庁にいた2年半で得たものを、若い方を含めて広く伝えていきたいと思うようになりました。日本において観光は産業やビジネスでも下に見られているし、学問領域としてもまだまだ十分に認められてはいないような状況。私自身、根っからの学者タイプではないですから、学問の世界へ入るのに「私なんかが……」というためらいはあったのですが、勇気を持って「観光学」の道に進むことにしました。
─そもそも「観光」という言葉は、どんな意味を持っているのでしょう?
矢ケ崎:観光は「光」を「観」ると書きますよね。これは中国の易経のなかに出てくる「觀國之光利用賓于王」という言葉がもとになっています。光というのは、国や地域のよいところを意味しています。日本語では「みる」という言葉にたくさんの漢字を当てますが、「観光」には「観察」の「観」という字を当てていますよね。それは、ぱっと見では見えない「光」をつぶさに観察して、自分の掌(たなごころ)に置いて、しっかり「観る」という意味なんですね。
先生の研究室のドアに貼ってある「観光」の文字
─観光学はどういう学問なのか教えていただけますか?
矢ケ崎:実は、「観光学」と言っても明確な定義がないんですよ。「観光」という四角いフィールドの中を旅人が動いている姿をイメージしてもらうとわかりやすいと思います。たとえば私が人類学者だとすると、「人類はアフリカで生まれ、そこを出てからずっと旅をしている。人にとって旅とは?」というようなアプローチで旅というものを見ていくと思います。フィールドの中にいる人と人が交流すれば、経済活動が発生し、これは経済学的なアプローチで見ていくことになる。旅行者が使う交通手段や宿泊等のハードについてはビジネスとしての経営をしなければならない。近年は観光において文化財や国立公園も活用しましょうという流れがありますから、そうなってくると文化や環境の分野からのアプローチもあり得ます。そもそも、ある地域に来てもらうためには、ブランディングから始まる幅広いマーケティングが必要になり、受入環境も整えていく観光地域経営が求められます。そして、「観光」が持続可能に発展していくように、適切な法制度を整え、効果的な政策を実施しなければならないのです。この「観光」というフィールドの中には、いろんな学問領域の方々がぴょーんと入ってくるんです。このフィールドを一つの学問として「観光学」と呼ぶ人もいるけれど、私は学際的な領域だと解釈していて、「観光領域」だと思っています。そして、その領域の本質は「複合的な社会課題を人々の交流によってどう解決するか?」だと思っています。私自身は、観光の法制度・政策を専門としていますので、「観光領域」全体を見ていく必要があります。
─さまざまな領域からのアプローチがあるんですね。これから観光学を学びたいと思っている人の中には、旅が好きな方はもちろん、地方から上京して自分が生まれ育った地域に貢献したいと考える方もいると思います。観光学は、どういった人が面白さを感じる学問だと思いますか?
矢ケ崎:まさに、生まれ育った地域について深く学びたい人にはぴったりだと思いますよ。私の受け持っているゼミも、半分程が地方出身の学生です。彼女たちを見ていると、観光を勉強することによって、自分が生まれ育った地域のよさがわかるようになっていきますね。自分が住まう地域に漠然となんらかの魅力があるのはわかっていても、それを具体的に知るためには、ほかの地域と比較したり、その地域以外の人の言葉を借りたりすることが必要なんですね。同時に、自分の地域の課題も同じだけ見つかってきます。地域外からの訪問者である旅行者を誘致する観光という視点を借りることによって、自分の地域を客体化するアプローチができるようになるわけです。
研究室には経済学、経営学、統計学、人類学、文化や環境、地域づくり・地域経営、法制度・政策にまつわる本などが並ぶ。学生も本を借りにくるそう
学生が自分で見つけた課題は宝物。最もよい形で学んでもらうために、教員同士のコミュニケーションも密に取っています
─先生のゼミでは「地域に役立つ旅行商品づくり」というカリキュラムもあるそうですね。
矢ケ崎:これは旅行者に来てもらう地域の人たちにとって、本当に役立つ旅とはどういうものかを考えてもらう、2年次後期の学生が取り組むプロジェクトです。たとえば、団体旅行のバスが何台も来て、大勢の観光客が降りて、しつらえられた団体客用のランチを食べて、1時間ほどその辺りを散策するという旅行プランがあったとしますよね。そういう場合、旅行客がそこで買うのは単価の安いお土産品ぐらいだけれど、駐車場の整備は必要だし、お手洗いは使うし、ゴミは落とす。これって収支バランスはどうなの? と考えてみる。もちろんそういう旅行者が欲しい地域もありますが、大半の地域はそうではありません。では、本当にその地域にとって来てほしいお客さんと、その地域のよさを味わえるアクティビティはどういうものなのか。学生たちにはそれを考えてもらいます。
─とても実践的な内容なんですね。
矢ケ崎:ゼミ生たちは、2年次前期に観光に関する基礎知識を学びますので、それを活用して進めます。データを集めて実態把握をして、調査仮説を立ててから、さらに必要な情報を収集・分析し、地域の担当者の方にヒアリング調査も行っています。さまざまなフィードバックをもらいながら具体的な旅行プランのアイディアと実現可能性を考えて、ほかの学年も参加する成果発表会でプレゼンテーションしています。自主的にフィールドワークへ行く学生もいて、独力でアポを取って、現地の観光協会や行政に立派にヒアリングをしてきた時は私も驚きました。ゼミは、学年が進むにつれてもっと実践的になっていきます。3年次の前期には観光産業の業界分析、後期には観光地域経営に関する政策提言、そして、4年次には、観光地域の方々と協働して、後輩に伝えたい観光地域づくり動画を作成するプロジェクトを進めています。
─東京女子大学は、専門領域を超えて学ぶリベラル・アーツ教育を重視しています。学生のみなさんが自主的に考えて行動できるのは、やはりその影響があるのでしょうか?
矢ケ崎:影響は大きいと思います。今申し上げたゼミの活動が可能なのは、1年生の段階で専門領域を学ぶための基礎力がついているということだと思います。さらに、私が教えている「コミュニティ構想専攻」も、まさに領域を超えて学ぶことができるカリキュラムになっていますよ。
─「コミュニティ構想専攻」について、もう少し詳しく教えていただけますか?
矢ケ崎:私たち人間はどうしても集まって暮らさなくてはならない生き物ですよね。生きる場所を健全でサステナブル(持続可能)なものとするためには、3つの要素が必要だと言われています。人のつながりという意味での「コミュニティ」。「経済」。そしてこの2つを根本から支える「環境」です。コミュニティ構想専攻は、この3つを学際的に学んでいくことができる専攻です。観光は主に「経済」の部分に当てはまりますが、単なるお金儲けの話ではなく、持続可能な地域づくりのために人々の交流をどう活用するかという観点から勉強します。このほかにも、「コミュニティ」や、SDGsの柱である「環境」の分野も学ぶことができます。
─たとえば、観光について勉強しているうちにコミュニティに興味が出てきたとしたら、領域を横断して勉強ができるのでしょうか?
矢ケ崎:もちろんできます。たとえば、アニメに登場する場所を巡る「聖地巡礼」って人気ですよね。最近では大河ドラマのロケ誘致よりも、アニメの聖地巡礼の方が地域の活性化には有効という話になっているんです。そのことについての研究をする場合、私のような観光学の先生と、コミュニティ論の先生の間を行ったりきたりして、指導を受けて論文にまとめていけばいいわけです。そもそも学生自身が「課題のかたまり」を見つけた時って、どの分野なのか、なにを使って研究をすればいいのか、わからないことがほとんど。そこで右往左往していると、コミュニティ構想専攻の先生たちが「それは誰々先生のところかなぁ」とか「じゃあ私のところで引き受けますよ」と方向性を教えてくれる。それはこの専攻で学ぶメリットだと思いますね。学生が自分で見つけた課題は宝物ですから、それを最もよい形で学んでもらうために、教員同士のコミュニケーションも密に取っています。
私は、大学とは自分で自分を育てる力をつける場、「自分育ての場」だと思っています
─ここ数年、新型コロナウイルスの影響で観光業界には大打撃があったと思います。そういったリスクやトラブルとの向き合い方についても、学生さんにお話されるのでしょうか?
矢ケ崎:リスクというものと常に向き合わなくてはいけないことについては、かなり意識してもらうようにしていますね。その名の通り「コミュニティとリスク」という講義もありますよ。観光は「雨が降ったらどうする?」「行きたい国の手前で紛争があったけど、どうする?」「自然災害が発生した後に、どんなタイミングで観光を立て直せば良い?」「風評被害対策は?」というように、常にリスクとその対処法を考える必要があるんです。観光は外部要因に大きく影響されるという特徴がありますからね。
─これから観光学を学ぶ意味や、メリットはどういうところにあるのでしょうか?
矢ケ崎:大きな話で口幅ったいのですが、大学を卒業し社会に出ると、世の中は不確実なことで満ちているんですよね。今の学生たちは、「明日が今日よりもよくなる」と無条件には信じていない人が多い。次世代を育成する大学は、なにが起こっても生き抜いていける力をつける機会を提供しないといけないのではないでしょうか。私は、大学とは自分で自分を育てる力をつける場、「自分育ての場」だと思っています。不確実ななかで、なにかトラブルが起こった時に「この得体のしれないものはなに?」といろんな方面から突っついてみて、「これは危ないものだ! これ以上大きくしないためにはどうしたらいい?」あるいは「これは非常に良い兆候だ。上手に育てていくためにはどうしよう」と判断し、どう対処していけばいいのかの仮説をいくつもつくる。そして、その仮説のなかから一番有効なものにリソースを集中させて動かしながら、また考えて改善していく。社会ではこういう作業をずっとやっていかなければならないわけですね。それを、楽しく学べるのが観光学なんです。
観光学について興味を持った方におすすめしたい本
『イザベラ・バードの日本紀行』(イザベラ・バード著/時岡敬子訳/講談社学術文庫)
イザベラ・バードはイギリス人の女性の冒険家で、欧米人で初めて東京から蝦夷地まで旅行をした人。この本は、彼女が妹に書き送った旅行記です。昔から英国人は、グランドツアーという大規模な国外旅行の伝統もあり、旅というものを上手に深く解釈しています。当時の日本が第三者からどう見られているのかという観点からも面白いですし、旅において地元の文化を知ることがとても大切だということも教えてくれる一冊ですね。
『ブランド王国スイスの秘密』(磯山友幸著/日経BP)
海外から日本へ観光客に来てもらうためには、国家としてのブランド力が必要です。そこは「スイスに学べ」というのが観光学での定番なんです。決して安売りをしないので、スイス旅行は高額なのですが、世界中の人がスイスを憧れの旅行地として認識していますよね。日本もそういう国になろうよ、という本です。
『インバウンド再生: コロナ後への観光政策をイタリアと京都から考える』(宗田好史著/学芸出版社)
これは日本の数十年先をいく、イタリアのインバウンド観光客の受け入れと悩みをしっかり振り返っている本です。特に京都の視点から考察されているのですが、それがすごく大事。というのも、京都にこそ日本の観光のすべてが詰まっているんです。たとえば観光地にキャパシティ以上の観光客が訪れてしまうオーバーツーリズムというような問題も、日本ではまず京都から起こりますよね。先輩格のイタリアの経験を、まずは日本代表の京都と比較して学ぶことができる一冊です。