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東京女子大学

第1回研究会(2012年10月12日)

安藤信廣 (東京女子大学教授)「幕末の『イソップ物語』の読まれ方—中国との比較にも触れて—」

1840年、中国・広東で英人ロバート・トームにより『イソップ物語』が漢語に訳され、『意拾喩言』と題して刊行された。この『意拾喩言』から出た一本『伊娑菩喩言』が、幕末嘉永・安政年間に日本に伝わった。その最初の読者の一人が吉田松陰(1830—1859)だった。

吉田松陰は、『伊娑菩湯言』を「自謀騙人」の物語として受けとめ、西欧人の論理を端的に示すものと理解した。とくに西欧が日本の国内政治に介入し、侵略を行う際の論理・方法を示すものとして、いわば西欧の(悪辣な)政治思想を示すものとして理解した。そのような意味で『伊娑菩喩言』は松陰の攘夷論を助長したと考えられるが、しかし西欧の実像を全体としてとらえようとする態度、ひるがえって日本を相対化して見る視点を育てる一助にもなった。攘夷論形成の中で幕府批判を深めることになる松陰の思想的営為の、一断面がここに見える。


一方、中国では、清朝末期の啓蒙的翻訳家林舒(1852—1924)が、1906年に『イソップ物語』を『伊索寓言』と題して訳出している。ここには数多くの林舒の見解・意見が記されている。その見解の中には、一般的な『イソップ物語』の読み方を逆転させ、ことに西欧の圧迫に対して主体性を守り独立を貫くことを説くものが多い。

松陰と林舒。二人は『イソップ物語』の寓話を国際関係の中で、ともに士大夫的に読んだのだった。しかし松蔭は幕府批判という政治論の確立に向かい、林舒は抵抗主体の確立という倫理観の形成に向かった。それがどのような問題を持つか、幕末の思想状況についての丸山眞男の論点等を参照しながら、今後考えて行きたい。 

平石直昭(帝京大学教授)「丸山文庫所蔵の自筆講義ノート(50年代後半)について」

このプロジェクトにおける私の担当は、丸山による1956年度と59年度の「東洋政治思想史講義」(東大法学部)を復元・公刊することである。この作業を進める上で、戦後の丸山における日本思想史方法論の変容の跡づけが問題になる。縦の歴史的発展段階論に対して、横からの文化接触を重視する見方への変化である。「古層」論はこれと関係する。後に丸山は、59年度講義ではじめて古代から論じ始め、欧米遊学後の63年度以後、「原型」論を冒頭で講ずるようになったと書いている。『丸山眞男集』別巻(初刷)の年譜もそう記している。しかし死後発見された自筆ノートや学生聴講ノートの調査から、古代から論じ始めたのは56年度であったことが分かっている(『丸山眞男講義録[第六冊]』の「解題・付」を参照)。本報告では、丸山の発言や諸資料を検討して、こうした齟齬が生じた所以など、問題点の洗い出しと整理を試みた。