小檜山ルイ(東京女子大学教授)「「知識人」と「家庭」問題--文化生活運動をヒントとして」
丸山眞男がジェンダーに関することを何も言っていない、という指摘を以前に平石先生からいただいたことから、それはなぜか、と考えはじめた。
というのは、明治初年以来、多くの「知識人」——それを今仮に、サルトルをベースにして、知識を持ち、かつ、公的な発言力・影響力を行使する人と理解するとすると——が、結婚や家族/家庭といったジェンダー色の濃い、女性がからむ問題を正面から扱って来たからだ。明六社の森有礼、中村正直、福沢諭吉、『女学雑誌』の巌本善治などがすぐに思い浮かぶ。また、徳富蘇峰の民友社が『国民之友』と『家庭雑誌』、対抗する政教社が『日本及日本人』と『女性日本人』を出していたように、女性に関係する問題群を扱う雑誌が、主要雑誌に寄り添うように同一の出版社から発行されていた例は、戦前にはいくつもあった。
明治以降の「知識人」は、西洋由来の「知」と対峙することが必須だったわけだから、その中に含まれたジェンダー関連問題群は、彼らの「知」の重要な構成要素であった。特にキリスト教を通じて西洋に接近した場合、そのキリスト教はほとんどの場合、アメリカ発の女性化したキリスト教であり、主婦を聖職者とする小さな教会としての「家庭」とそのような「家庭」によって支えられる公(おおやけ)、国家 (nation) を唱道していたから、「女性」、「結婚」、「家庭」、「子供」といった問題は、到底無視できない政治的課題となる。
ジェンダー関連問題に対する「知識人」の関心は、丸山眞男の親の世代(1880年前後生まれ)において、頂点を極めた(のではなかろうか)。この世代に属する京都帝国大学教授厨川白村(1880-1923)は、『近代の恋愛観』を書いて、一世を風靡した。私が現在関心を抱いているのは、森本厚吉、吉野作造、有島武郎という同世代トリオが、ユニヴァーシティ・エクステンション(高等教育機関が保有する知を広く大衆に開放しようという運動、大学解放運動)として1920年以降展開した「文化生活運動」である。
森本、吉野、有島は、キリスト教、社会主義へのシンパシー、恋愛感情と結婚の接合という問題意識、物質的生活水準の向上と「家庭の和楽」あるいは「一家団欒」への欲望等を共有し、「家庭」における日常生活の豊かさ(物質的かつ精神的/感情的)を多くの人が獲得することが、「平等」を促進し、デモクラシーの礎を築くと考えていたようだ。特に森本は、「中流階級」は、下層労働者階級と上流階級の橋渡し役となりえ、その豊かさと拡充は、階級対立の先鋭化を和らげると考えていた。森本にとって、その豊かさは、合理的な消費によって支えられるもので、その消費の指標を具体的に示すべく、やがて「文化アパートメント」の建設・経営、女子文化高等学院(現新渡戸文化学園)の設立へと邁進していった。
森本厚吉を中心とする「文化生活運動」以降、大正・昭和前期に「文化」の独特な用法——文化住宅、文化村、文化鍋、文化包丁等々——が流行したことが示すように、森本的主張は、大衆的浸透力を持ちながら、一般には俗物的と受け取られるようになっていったようでもある。
とまれ、太平洋戦争前までに、一定の「文化的」ライフスタイル——どういう家に住み、どこに住み、どのような妻を持ち、どのような家庭を持つか——は、「中流」の模範たる「知識人」の構成要素の一つになりかけていたのではないだろうか。森本厚吉と有島武郎の揺籃の地、札幌には、「桑園博士町」、「医学部文化村」といった北海道帝大教授の大規模文化住宅が集まる地区があった(後者は森本の運動以降にできた)し、吉野作造は、伊豆の畑毛温泉で別荘地を開いて「韮山別荘団」を結成、一定のライフスタイルと思想を共有する人々で共同体運営を行った。法政大学の教員の間で「法政大学村」と呼ばれる別荘地ができたのも1920年代のことである。
丸山眞男世代の「知識人」にとって、ジェンダーに関わる問題群が、その視野から排除されたとするなら(むろん例外もあるが)、それは、この世代の特徴なのではなかろうか。この世代の「知識人」、あるいは、少なくとも丸山にとって、「家庭」や「文化的」ライフスタイルはすでに既得のものであったからだろうか。あるいは、アメリカによる占領と女性の地位の向上で、女の問題は戦後になってはじめて女たちに委譲された(男女の分業、女性独自の言論空間の創世——アメリカでは19世紀的構図)のかもしれない。さらには、丸山世代の男性の多くは、軍隊経験をしているから、ホモソーシャルな友愛の強化によって、女性を巡る問題を軽視する気風が養われたという推測もできる。
というのは、明治初年以来、多くの「知識人」——それを今仮に、サルトルをベースにして、知識を持ち、かつ、公的な発言力・影響力を行使する人と理解するとすると——が、結婚や家族/家庭といったジェンダー色の濃い、女性がからむ問題を正面から扱って来たからだ。明六社の森有礼、中村正直、福沢諭吉、『女学雑誌』の巌本善治などがすぐに思い浮かぶ。また、徳富蘇峰の民友社が『国民之友』と『家庭雑誌』、対抗する政教社が『日本及日本人』と『女性日本人』を出していたように、女性に関係する問題群を扱う雑誌が、主要雑誌に寄り添うように同一の出版社から発行されていた例は、戦前にはいくつもあった。
明治以降の「知識人」は、西洋由来の「知」と対峙することが必須だったわけだから、その中に含まれたジェンダー関連問題群は、彼らの「知」の重要な構成要素であった。特にキリスト教を通じて西洋に接近した場合、そのキリスト教はほとんどの場合、アメリカ発の女性化したキリスト教であり、主婦を聖職者とする小さな教会としての「家庭」とそのような「家庭」によって支えられる公(おおやけ)、国家 (nation) を唱道していたから、「女性」、「結婚」、「家庭」、「子供」といった問題は、到底無視できない政治的課題となる。
ジェンダー関連問題に対する「知識人」の関心は、丸山眞男の親の世代(1880年前後生まれ)において、頂点を極めた(のではなかろうか)。この世代に属する京都帝国大学教授厨川白村(1880-1923)は、『近代の恋愛観』を書いて、一世を風靡した。私が現在関心を抱いているのは、森本厚吉、吉野作造、有島武郎という同世代トリオが、ユニヴァーシティ・エクステンション(高等教育機関が保有する知を広く大衆に開放しようという運動、大学解放運動)として1920年以降展開した「文化生活運動」である。
森本、吉野、有島は、キリスト教、社会主義へのシンパシー、恋愛感情と結婚の接合という問題意識、物質的生活水準の向上と「家庭の和楽」あるいは「一家団欒」への欲望等を共有し、「家庭」における日常生活の豊かさ(物質的かつ精神的/感情的)を多くの人が獲得することが、「平等」を促進し、デモクラシーの礎を築くと考えていたようだ。特に森本は、「中流階級」は、下層労働者階級と上流階級の橋渡し役となりえ、その豊かさと拡充は、階級対立の先鋭化を和らげると考えていた。森本にとって、その豊かさは、合理的な消費によって支えられるもので、その消費の指標を具体的に示すべく、やがて「文化アパートメント」の建設・経営、女子文化高等学院(現新渡戸文化学園)の設立へと邁進していった。
森本厚吉を中心とする「文化生活運動」以降、大正・昭和前期に「文化」の独特な用法——文化住宅、文化村、文化鍋、文化包丁等々——が流行したことが示すように、森本的主張は、大衆的浸透力を持ちながら、一般には俗物的と受け取られるようになっていったようでもある。
とまれ、太平洋戦争前までに、一定の「文化的」ライフスタイル——どういう家に住み、どこに住み、どのような妻を持ち、どのような家庭を持つか——は、「中流」の模範たる「知識人」の構成要素の一つになりかけていたのではないだろうか。森本厚吉と有島武郎の揺籃の地、札幌には、「桑園博士町」、「医学部文化村」といった北海道帝大教授の大規模文化住宅が集まる地区があった(後者は森本の運動以降にできた)し、吉野作造は、伊豆の畑毛温泉で別荘地を開いて「韮山別荘団」を結成、一定のライフスタイルと思想を共有する人々で共同体運営を行った。法政大学の教員の間で「法政大学村」と呼ばれる別荘地ができたのも1920年代のことである。
丸山眞男世代の「知識人」にとって、ジェンダーに関わる問題群が、その視野から排除されたとするなら(むろん例外もあるが)、それは、この世代の特徴なのではなかろうか。この世代の「知識人」、あるいは、少なくとも丸山にとって、「家庭」や「文化的」ライフスタイルはすでに既得のものであったからだろうか。あるいは、アメリカによる占領と女性の地位の向上で、女の問題は戦後になってはじめて女たちに委譲された(男女の分業、女性独自の言論空間の創世——アメリカでは19世紀的構図)のかもしれない。さらには、丸山世代の男性の多くは、軍隊経験をしているから、ホモソーシャルな友愛の強化によって、女性を巡る問題を軽視する気風が養われたという推測もできる。